被災者としての1.17と日本人としての3.11

今日はあの日からちょうど1年が経ちました。ゼロからかもしれないけれど、着実に前に進んで行くことしかないですよね。

とにかく継続的な復興支援を

少しずつでも何らかの“継続的”な支援をしていく必要があるなと改めて思います。実行に移そう!復興支援、みんなそれぞれができることを少しずつでも!様々な支援のあり方がありますし、チャリティーやボランティアだけじゃないですよね。

▼元気だ状プロジェクト
元気だ状プロジェクト

▼みちのく未来基金
みちのく未来基金

今日は2:46に、追悼式典をテレビで見ながらの黙祷となりました。まだ何もかも始まったばかりです。

3月11日の記憶

あの日は会社の事務所にいました。Twitterを仕事で閲覧していました。東から西へ順に住む人々が「地震だ!」というツイートが、押し寄せてきたかと思うと、大阪のビルも長時間の小さな波長の長い揺れを感じました。(船酔いみたいな感覚に大阪ですらなったことを覚えています。)揺れが納まった頃には、ビルの外にも人が何事かと出て来ていたり。

そうこうしているうちに、 ソーシャルメディアから飛び込んでくる火災の写真や、玉石混淆な情報。ほとんど仕事が手につきませんでした。帰宅してからの報道、そして翌日は我が家に友人が来ていたけれど、ずっと報道に釘付けになっていました。何が何だか分からない、少しずつ明らかになっていく情報...やっぱり17年前の1月17日と似たような感覚に陥りました。

そんな2011年3月11日の記憶。忘れないようちょっと書き留めておこう。

1月17日の記憶

阪神大震災、小学6年生だった私は、震度7の渦中にいました。激しい縦揺れに目を覚まし、何が何だか分からない間に、自分の背丈以上の本棚に押しつぶされ身動きがとれなくなって。遠く部屋からオカンとオトンの声がして。オトンがいろんなものにつまづきながらこっちに向かってくる。なんとかオトンが本棚を持ち上げてくれた隙に脱出して、マンションの外に着の身着のまま出てみると、周囲の家はあちこち倒壊、ガスのニオイが立ちこめていました。

その後は、神社に駐車していた車の助手席でずっとラジオを聞いて状況を把握しながらオカンと過ごしていたり。オトンは周囲の救出の手伝いに向かったり。近くに住む親戚たちの安否を確認したり。

でも実際はその後の生活や学校がほんと大変やったなぁ〜と。

それ以上のことは覚えていませんが、ほんと何が何だか分からなかったんですよね。これも忘れないように、エントリーに書いておこうと思ったのです。

 

私は大学時代、社会調査の実習で神戸市の各区を回って被災者ワークショップに参加し、復興状況をみんなでまとめ、神戸市に報告したり。卒論は震災後の商店街の様子をまとめたり。実習メンバーは第1回の国際都市防災会議(ちょうど震災後10周年でした)のお手伝いをしたり。大学の実習やゼミのおかげで、また震災について考えるきっかけがありました。こういった活動も何らかの役に立つ事を祈るばかりです。

 

ブラ・トヨ

ブラ・トヨ について

真面目にゲームやアソビの利活用を研究中。 行列と渋滞が苦手。締めのラーメンは食べません。野球は観るのもするのも好きな元テニス部員。妄想と空想と現実の狭間で過ごす。時々ダークサイドが露出しますが許してください。